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『鍼灸療法講座』 メールマガジンをはじめます
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    田中です。

    いつもご購読頂き、ありがとうございます。


    ブログなどもここ暫くは日々の臨床や雑務に追われる状況で、進んでいなかったのですが、

     

    今後は少し、『鍼灸療法の実践面』について書いていこうと思っています。

     

    このブログ上はどちらかというと私の日常考えていることなどを書き綴っているものなので、

     

    直接的に『鍼灸の実践面』というものではございません。

     

     

     

    今回はメールマガジンという土俵で、治療家の初心者の方に向けて書かせて頂こうと思います。

    内容のほうもこのブログとは異なり、

     

    鍼灸師、手技療法などの専門家向けです。よって医学用語や専門用語が多くなります。

    わかりずらいことはその都度、何度も説明をしてゆくつもりです。

    (一般の方でも専門家向けの内容ということをご理解頂ければ、登録して頂くのは歓迎です)

     

     

     

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    鍼灸療法やツボ療法、経絡のことを学んできたがそれらの理論を


    「陰・陽」や「五行」という東洋医学の矛盾するような事柄を

    どのように考えたらいいかよくわからない。


    鍼灸や漢方の考えかたをどのように実際の施術に活かしていいのかよくわからない。


    東洋医学では実際の施術ではどのようなからだのみかたをし、施術をしてゆくのか?


    そういったことをお伝えしてゆきます。

     


    実践の中身は濃い内容ですが、シンブルにわかりやすく、
    なるべく早く日々の施術に活かせる内容にしてゆくつもりです。

    宜しくお願いいたしますm(_ _)m

     

     

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     『鍼灸療法講座』 ほうらい鍼灸 九鍼堂 メールマガジン

     

    以下の登録フォームから登録して頂ければ、購読できるようになります。

     

    http://kyushindo.feel-hariq.com/malemagazinetoroku.html

     

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    | まんひゅ〜 | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
    寒熱について 『陰極まれば陽と転ずる』
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      人と人が接する臨床というものでは、「陰極まれば陽と転ずる」ということばがあるように、
      例えば冷えと熱がどちらなのか?

      ただ闇雲にみてしまうとなにも判断がつきません。


      細かくみれば常に揺れ動いてバランスを維持しようと変化しているのです。
      そこには人それぞれの気持ちや感情で大きく異なる要素が含まれています。

       

      このような「寒熱を正常に戻したい」という概念だけに囚われて病を治めようとしてしまうと、
      何をしていいのかを見失います。根本的な基本的な大事なことを見失っている状態です。

       

      そういう時は違う角度で捉えます。わかりやすいところをみつけます。
      (細かくからだに聞いてゆくと必ずわかりにくいことを気にするよりも、
      ハッキリとだれがみてもわかりやすいところが必ずあります)


      大概は全く異なる別のシンプルなみかたを探します。
      時間はかかるかもしれませんが、過去にさかのぼるようにそこから順番に筋道を追ってゆけばいいのです。


      寒熱というみかたを一旦保留して、それでは十二ある臓腑の関係はどうなのか?
      ということで進めてみる。
      (その瞬間、瞬間で変化してゆく音楽などのライブ演奏のような感覚の柔軟性も大切です)


      まさしく、からだの不調を起こすのは12の臓腑とそれを維ぐ気の流れの盛衰です。

      人は感情の動物ともいわれます。


      未病といわれる日常おこりがちな症状やからだの違和感を変えてゆくには、
      とくに心の状態と呼吸、からだの使い方、時間的なものも含めた繊細さも要求されます。


      十二の臓腑のバランスを乱れを調えるということで健康状態を維持できると
      考えているのが東洋医学(鍼灸・漢方・気功)の考えです。

      病を治める基本は、臓腑=からだや動きなどのバランスが同じ一つのものとみていることです。


      少しわかりずらいのは、各々の臓腑のバランスを取るために、その臓腑には直接には鍼を灸をしません。

      背中やお腹にある各々の臓腑のツボには鍼やお灸をしますが、主眼を置いているのは、
      そこに繋がる手や足のツボも含めた流れや維がりです。


      東洋医学(鍼灸・漢方)は様々な角度からみることのできる豊富な診察法が描かれています。
      また治法の段階では、スッキリとシンプル描かれています。


      話は少し戻りますが、仮定して捉えたことがもし間違っていても
      (ある事柄が間違っている、当っているという判断は、
      自然であるからだの側からみれば、あくまでもその人のみかたであり、
      もしかしたら傲慢で殆いことなのかもしれません)

       

      何かをすると、とにかくからだに変化が起こる。

      例えば動けば汗が出て、心臓の鼓動が早くなるのが脈をみれば誰でもわかります。
      みる前にまずは、こういうからだなので、こういう脈をしているのではないか?
      というような何か予測というか前提があります。


      今の季節は冬だから沈んだ脈でもよい、夏に沈んでいたら冷えているなど様々です。

      それが動いていたのに脈が細く、力がない。などというときは、
      何かからだがおかしいとみてゆきます。


      その変化の箇所を見つけやすいように診察やツボといとうものが語られていて、
      その見つけやすい順番にしたがってゆくと、からだの状態(病態)や病因と言われる病気の原因も浮上してくる。

      そのようにつくられていると感じます。

       

      一つ注意しないといけないことは、見つけたところを変化させるには、
      からだ全体をみて、異なるところに鍼やお灸をすること。
      からだを一つの繋がりとしてみることです。


      そうすればある筋肉のつっぱり感と内臓の不調との維がりが経脈というもので維がっていると確認できます。


      これが『病が左にあるときは、右に取り。病が上にあるときは、下に取る』という、
      内臓を治すためなのに、手足のツボが重要になるということです。

       

      同様に右の手首の動きをよくするために、左の足の足首にあるツボに鍼をしたりということです。

      なぜこういう方法が続いてきたのかというと、やってみればわかるのですが、
      からだの違和感が少なく変えたいものを大きく変えられるからです。


      テコの原理のようなものでょうか?


      最小限の刺激で最大の効果を出すという方法です。

       

      要するにこちらのほうが簡単でやりやすいことなのです。

       

      これらは経絡の流れにきちんと従って行えば、通常ではどなたにも起こる現象です。

       


      仮りに進めること、これは私達の何気ない日常では普通です。
      習慣というもので歯磨き一つとっても、からだで無意識的におこなっています。
      たまに意識的に考えて歯を磨いてみる、動いてみる。


      歯茎と胃腸の関連がみえてくる。口の中の粘つきや唾液の質と、頭部の発汗量などの
      関係もみえてくる。


      もちろんそれだけではないのですが、それ自体が自分のからだとの対話です。

       

      間違っていると感じれば、いつでも方法は変えられます。


      からだは朝と夜では異なります。そういった一見複雑なからだというものを、
      シンプルにみてその治法が確立しています。

       

      何気なく自然というものに対したときに、難しく考えてしまうクセは、
      僕自身の側にあったことに気付かされるます。


      考えてもわからない時は、「何も決めないで時の流れのまま」
      というのもある時期は必要なのかもしれません。


      きっといい答えがみつかるはずです。

      | まんひゅ〜 | 17:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
      パソコンの作業と肝鬱気滞
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        ドリームウィーパーでサイト管理をするのに、
        全体の構成やサイトの整理の仕方を整えられるようになるのに、
        10年以上かかってしまったかもしれない。
        昨年よりパソコンのosをlinuxに変えたので、windowsを立ち上げることがほとんどなくなったのですが、
        少し細かなことをしようとすると歳のせいで頭も固くなっているせいか、
        どうも今までのような感覚とは違い大変です。

        慣れている方は簡単にできてしまうのかもしれませんが、
        こういったことに中々やる気を出せない私は(道具が使いこなせない)、
        何度チャレンジしてみてもとだんだんと頭がこんがらがってきてしまい、
        本題のやらなくてはならないことのほうが進まなくなるので、
        (やらなくてはならない本題自体すら、忘れてしまいます)

        そういった頭の中が悶々とする経験を何回もしているので、
        諦めて本題に戻らねば本題が進まないということは少しは身につけたのですが、
        整理のほうは手が付けられていなかったままの状態でした。
        冷静に振り返れば、ただ単にパソコンの中身のファイルの整理が苦手ということになるのですが。。。

        そういった患者さん本来が私に伝えたかった大変さを、我が身につまされたことで、
        いかに日々の患者さんの訴えを真摯に受け止めていないのか。
        毎日反省する次第です。

         

        よく患者さんからは、こういったパソコンのわけわからない大変さについてのことを話されます。

        こういったときは、肝郁(肝鬱、肝気うっ滞)という状態です。
        からだ全体の気の流れがリラックスして流れていない状態のことをいいます。
        心と内臓の働きは密接で、ちょっとした緊張感やイライラ、魂をつめたことをしているときは、
        肝臓の力が大事なのですが、いかんせん強くなりすぎる(がんばりすぎる)きらいがあります。
        一つの興奮状態のようなもので交感神経が強く働き頭に気が昇っている状態で血圧も高くなりがちです。

        こういったときは頭だけでなく足腰を積極的に使ってあげて、血液や意識を足の指先まで戻してあげます。
        お腹のほどよい緊張がなく呼吸もうまくいっていない状態から頭の気を引き下げると例えたりします。
        これが本来お腹にあるべき「丹田」の気が、頭に昇っていることの表現です。

         

        このパソコンのようなことは、一度スッキリ整理がつけばそれほど苦がなくできるようになるのですが、
        とにかく融通が利かないというか、パソコンというものはこちらは親しくなれたつもりになっていても、
        かなり反応はお堅いです。


        鍼灸と同じ陰陽論を応用したもののハズなのに、なぜにこうも気が利かないヤツなのかと、
        怒りを向けたくなります。
        電気のことや機械というものも、一度はわかったつもりのようになるのですが、
        結局よくわかりません。


        世間では人工知能などと騒ぎたてておりますが、私自身未だに本当にお互いが理解できるのか疑問です。
        人間自身、自分のこころとからだのことがまだまだわかっていないままの『見切り発車』なのですが、
        よくするのも悪くなってしまうのも私達自身にあるのかもしれません。


        話を戻し、ロボットはともかく人間以外のものとのコミュニケーションということで考えてみても、

        それでは私自身、盆栽やうちの猫、身内の間でさえ本当に理解しあえているのか?

        もしかしたらそれは私の錯覚かもと。。。。(恋愛なども同様なことなのかもしれません)

        そのような深淵なテーマへと私を導きます。

        毎日そう信じて日々過ごすしかないと言い聞かせている身上が私なのですが。。。

         

         

        そういった一見考えてもしかたがないこの矛盾というか不条理なことは、
        日々の生活のでは普通にあらゆることに連続して起こっていると気付きます。

         

        そうかもしれないし、そうではないかもしれない。

        そういったことでは全く何も進まなくなり困ってしまうので、
        とりあえずスタート地点をどちらかに仮定して進めるのが陰陽論です。


        かりにそうだということで進むのが陽的と考えて、次の展開に進んでみる。
        かりにそうではないということで、陰的と考えてて、次の展開に進んでみる。

        これは易という占いの考え方も同様です。


        太陽と月のような朝と夜のことでは、太陽を陽として、月を陰とすることを決めることに多くの方は
        それほど違和感がないかもしれません。

        しかしそう決められていると言われても納得できないと先に進めなくなる
        そういうものが人間本来です(当たり前です。自然の側からみれば、人間が創りあげた理屈なのですから)。


        陰陽論で考えるときには、
        まずはじめに陰陽の区別をすること自体を、仮りにそういうことだというふうに考えるのだ。
        というハッキリした自覚のようなものが必要です。
        「仮に」ということでいかないと何もみえず進まなくなってしまうこと多々あります。

        そして、「逆もまた真なり」

        このような柔軟性をもってあたらないと、陰陽論自体が生きたものでなくなり、
        気というものを頭だけで考えて深読みしすぎて、眼の前のものを目を向けることを忘れさせます。
        単なる思い込みや迷信になる危険性もあります。

        | まんひゅ〜 | 17:36 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
        終末論 と 『列子』 杞憂 
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          終末論 と 『列子』 杞憂


          杞憂(きゆう)という言葉の元は『列子』に出てくるものといわれています。

          昔の中国の「杞」という国の人が、天が落ちてくるのではないか、大地が壊れてしまうのではないか?
          と不安になってしまう男の話です。

          今の言葉でいうと、世界の終末をあまりに心配して、夜も眠れなくなり食事もすることができなくなったという、
          話で、『列子』の天瑞篇に書かれているものです。
          故事として有名なもので、よくあれこれと無用な心配をする人のことを嘲笑の意味を含めて「杞憂」というようになったとのことともいわれています。

          昔これを読んだ時は、故事でいうところ同様、それほどの意味は感じず、単なる故事上の言葉でしかなかったのですが、東日本大震災、原発事故、ネット上の陰謀論などというものを含めて読んでみると、地震以前に「杞憂」を読んだ時の自分と今の自分とでは明らかに異なります。私にとって「杞憂」という言葉は、単なる故事の意味でいうところの「杞憂」という意味ではなくなってしまった気もします。
          あの当時を振り返ると鴨長明の『方丈記』もやはり今までとは明らかに違ったものになった気がします。

          故事の例えのように、

          「単なる心配性の男のことを馬鹿にした故事の中の笑い話」

          とだけでは済まなくなりました。他人事ではなくなってしまったようにも感じます。陰謀論や終末論にはまってしまうということは今の世の中の状況、私達自身の生と死をも含めて考えると、決して笑い話の例外的なことではなく誰の心の中にも多かれ少なかれ生じる時代を超えた普遍的な心の状態なのかもしれません。

          『列子』自体その後にも天地自然の法則、人の生と死などを説いているのですから、まずはこの心配性の男になったぐらいの気持ちで読み、再び故事のいう笑い話のような心境に一巡してきたときには、より一層の感銘を受けるものなのかもしれません。





          ということで『列子』です。

          老荘思想といわれているものには、まずは『老子』『荘子』などが一般的かもしれません。

          私自身は、『老子』→『荘子』→『列子』の順で読んでいったのですが、鍼灸や東洋医学の思想的背景を補うものとして、最もわかりやすいと感じたのは『列子』でした。『老子』もわかりやすいとは思うのですが、政治的な部分なども多々あり、私にとっては何かどうしてもそのまま医学的な思想の部分には直接繋がりを感じるのは難しい気もしており、若い頃の私にはその間に何かもう一つ欲しいといつも感じていました。

          また『荘子』は「胡蝶の夢」に代表されるように、夢かうつつか、うつつか夢かの世界観ですので、とても文学的というか芸術的な描き方(あの当時にあのようなものを書けるくらいですから、鍼灸というものが当時稚拙な医学ではなかったのかと私なんかは思っていましたが、そのことを考えるだけでも十分吹っ飛びます。きっと恐ろしいくらいの感性を持った鍼灸師たちがウジャウジャいてその人たちがあれだけのものを完成さてたのだと推察します)
          その文学的・感性的な内容は初めて読んだ私には解説がなければはさっぱりよくわからない、
          「?」の世界でもありました。



          そしてその後『列子』を読んだ時に思ったことは、まずは『列子』から読むべきだった!
          でした(/_;)
          『黄帝内経』には、東洋医学の中の思想的な核心部分はダイジェスト的にくどくど説明がなく、
          わかりきった前提の上で語られている鍼灸の技術書です。(ですからそのバックボーンになっている考え方が、
          自分の中でしっくりいかない場合はなぜそうなのか?と探る必要がでてきます)
          『列子』を読むとその中でも老荘的な部分などの疑問は一気に解けた思いでした(東洋的な生命観や自然観が理路整然とわかりやすく書かれています。
          その意味で肩の力が抜ける気もし、そしてなにより『列子』には何か間抜けさやユーモアさを感じるので、
          肩肘を張らずに気楽に楽しめる感じがするのです)。

          気楽さということでは本来は『荘子』がそうなのでしょうけど、文学的な表現なので黄帝内経に登場するような
          医学用語とは少し異なる漢字が多かったりで、元々漢詩などの文学教養がない私にとっては
          どうしても慣れるまでは難しく感じてしまいました。

          そういった私のように若いときに漢文に親しみがなかった人でもわかりやすい。
          今回は老荘思想の中でも『列子』は誰でもわかりやすいものだ。ということを書きたかったのですが、
          内容的にもとても面白いです。
          (しかしいきなり漢文ではいやになります(/_;) まずは現代訳でわかりやすいものに限ります)



          そしてその面白さを説明するのは私には難しいと感じたので、
          今回は助けを頂き、加藤徹のホームページを紹介させて頂きたいと思います。

          NHKワールド・ラジオ日本の中国語[http://www.nhk.or.jp/chinese]の番組
          「波短情長」を担当している先生ですが、
          漢文の研究をされている先生で多くの漢文や中国文化などの本を出されています。

          私が初めて読んだのは『漢文力』というものでしたが、
          これがとても面白く、ただ単に苦痛だけだった漢文を読まなければいけないという日常から
          解放してくれたとても有り難い本です。

          この本の中の目次をめくってみると、

          第一部 内面と外面
          第一章 自分という奇跡をかみしめよう
          第二章 自己はどこまで他者を理解できるか
          第三章 現実と幻覚はどこまで区別できるか
          第四章 この世のすべては言葉で表せるのか
          第五章 魅力と恐怖の秘密

          第一部だけ眺めてもとても興味のそそるタイトルばかりです。



          その他、今私の目に引くものをあげてみます。

          第二部 あの世とこの世
          第二章 死者は二度殺してはならない
          第三章 生まれてくる不思議、死んでゆく意味
          第五章 姥捨山と二十四孝

          第三部 自然と宇宙
          第一章 大自然の掟
          第二章 宇宙人の目

          第四部 自分を生かす
          第一章 学問の落とし穴

          第五部 文明のからくり
          第一章 政治という怪物
          第二章 文明の明と暗
          第三章 中国古典の戦争論


          これらを古典文学のことだけではなく、キティちゃんの顔に口がないのはなぜ?だとか、オカルトの世界、コミックマーケット... 現代の私達の周囲にあるものとの関係などを例に出し、一見堅苦しく難しい漢文の世界をわかりやすく教えてくれます。

          上の第一部 内面と外面 の
          第三章 現実と幻覚はどこまで区別できるか では、

          やはりはじめに少し話した、
          『荘子』の「夢為胡蝶」夢に胡蝶と為る ですが、

          その後には、禅僧の臨済(?〜897)が弟子達に言った言葉や
          ヒラリー・パトナムという人の「培養槽のなかの脳」という思考実験の話。
          幻肢という(事故で手足を失った人のないはずの手や足の痛みや痒みを実感する)ことへまで話が飛び(星新一)
          私達が感じること、思うこと、そして死後の世界、大自然の掟、文明のからくりへと...。

          これらの内容を漢文で書かれた様々な書物のことを引き合いに出し、さらに今の風潮や様々な思想家などの
          話を交えてわかりやすく教えてくれます。(普段の大学での講義を元に書いたものだそうです)
          是非機会があったら『漢文力』も読んでみてください^^



          そして、以下は加藤徹のHPの中にある、

          『列子』抄 http://www.geocities.jp/cato1963/PKJlzc.html

          という『列子』の現代語訳です。


          この加藤先生の現代語訳の構成を読んで気付いたことは、『列子』でありながら
          SFの星新一のショート・ショートを読んでいるような不思議な感じがすることです。
          後でわかったのですがまさにそうでした。

          元々、『列子』自体には篇名しかないのですが、
          これは加藤先生のつける題名にあるのかもしれません。

          『列子』湯問第五 を、

          『列子』湯問第五 アンドロイド

          です。

          最後には、

          [レプリカント、フランケンシュタインの怪物、西行法師、etc]

          とあります。


          『列子』を上質なSFのショート・ショート風に置き換え、
          とても古典の難しさを微塵も感じさせず、むしろこれだけ読むと古典ではないように
          読みやすくしてくれています。

          是非お暇な時間があるときには、ゆっくりと加藤先生のHPを訪れてみて下さい^^

          『列子』抄 http://www.geocities.jp/cato1963/PKJlzc.html

          加藤徹のHP http://www.geocities.jp/cato1963/index.html

          中国古典からの発想 http://www.geocities.jp/cato1963/china-ideas.html
          ↑こちらには星新一さんのことも書かれているものです

          『その他参考』

          こちらは『荘子』です。
          松岡正剛の千夜千冊 726夜『荘子』荘子|




          私のほうでは読みたくないような原文と書き下し文ですが、いつもすみません^^;

          「杞憂」の部分

          杞國、有人憂天地崩墜、身亡所寄、廢寢食者。又有憂彼之所憂者。
          因往曉之曰:「天積氣耳、亡處亡氣。若屈伸呼吸、終日在天中行止。奈何憂崩墜乎?」
          其人曰:「天果積氣、日月星宿、不當墜耶?」
          曉之者曰:「日月星宿、亦積氣中之有光耀者。只使墜、亦不能有所中傷。」
          其人曰:「奈地壞何?」
          曉者曰:「地積塊耳、充塞四虛、亡處亡塊。若躇歩跐蹈、終日在地上行止、奈何憂其壞?」
          其人舍然大喜、曉之者亦舍然大喜。
          長廬子聞而笑之曰:「虹蜺也、雲霧也、風雨也、四時也、此積氣之成乎天者也。山岳也、河海也、金石也、火木也、此積形之成乎地者也。知積氣也、知積塊也、奚謂不壞?夫天地、空中之一細物、有中之最巨者。難終難窮、此固然矣;難測難識、此固然矣。憂其壞者、誠為大遠;言其不壞者、亦為未是。天地不得不壞、則會歸於壞。遇其壞時、奚為不憂哉?」
          子列子聞而笑曰:「言天地壞者亦謬、言天地不壞者亦謬。壞與不壞、吾所不能知也。雖然、彼一也、此一也。故生不知死、死不知生;來不知去、去不知來。壞與不壞、吾何容心哉?」



          杞の国に、人の天地崩墜して身寄する所なきを憂え寝食を廃する者あり。又彼の憂うる所を憂うる者あり。
          因って往いて之を曉(さと)して曰く、「天は積気のみ、処として気なきはなし。若(なんじ)屈伸呼吸して、終日天中に在りて行止す。如何(いかん)ぞ崩墜を憂えんやと?
          その人曰く、「天果たして積気ならば、日月星宿は当に墜つべからざるかと?」
          之を暁(さと)す者曰く、日月星宿も亦(ま)た積気中の光耀あるものなり。只(たとい、即、仮令たとえば)墜ちしむるも、亦た中(あた)り傷る所ある能わじと。」
          その人曰く、「地の壊(くず)るるを如何せんと。」
          暁(さと)す者曰く「地は積塊のみ。四(方)の虚(空)に充塞(みちみ)ちて、処として塊なきはなし。若(なんじ)躇歩(あしぶみ)跐踏(あるきて)、終日地上に在って行止す。奈何(いかん)ぞその壊(くず)るるを憂えんと?」
          その人舍然(しゃくぜん、釈然)として大いに喜び、之を暁(さと)す者も亦(ま)た舍然(しゃくぜん、釈然)として大いに喜ぶ。
          長廬子(ちょうろし)聞きて之を笑って曰く、「虹蜺(こうげい)や、雲霧や、風雨や、四時や、此れ積気の天に成るものなり。山岳や、河海や、金石や、火木や、此れ積形の地に成るものなり。積気なることを知り、積塊なることを知らば、奚(いかん)ぞ崩れずと謂わん?夫れ天地は空中の一細物(いちさいぶつ)にして、有中の最も巨(おおい)なるものなり。終え難く窮め難きこと、此れ固(もと)より然り。測(はか)り難く識り難きこと、此れ固(もと)より然り。その壊(くず)れんことを憂うる者は、誠に大(はなはだ、甚)遠しとなす。その壊(くず)れじと言う者も、亦(ま)た未(いま)だ是(ぜ)ならずとなす。天地も壊(くず)れざるを得ずんば、則ち会(かな、必)ず壊(くず)るるに帰せん。その壊(くず)るる時に遇わば、奚為(なんす)れぞ憂えざらんやと?」
          子列子聞きて笑って曰く、「天地を壊(くず)れんと言う者も亦(ま)た謬(あやま)りなり、天地を壊(くず)れずと言う者も亦(ま)た謬りなり。壊(くず)るると壊(くず)れざるとは、吾が知る能わざる所なり。然りと雖(いえど)も彼も一なり、此も一なり。故に生は死をしらず、死は生を知らず、来(みらい)は去(かこ)を知らず、去(かこ)は来(みらい)を知らず。壊(くず)るると壊(くず)れざると吾何ぞ心を容(い)れ(労せ)んやと。


           
          | まんひゅ〜 | 22:51 | comments(1) | trackbacks(0) | - |
          鍼灸資生経(王贄中) あいうえお 経穴索引
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            『資生経』(1220年)王贄中(12—13世紀)のツボの索引をつくりました。

             『資生経』は思い起こせば、私自身のなかではじめて古典の全文を中国語簡体字から、
            日本の漢字に打ち直しをしたものでした。

             はじめて学生の頃、北京を訪れた時にまず購入した書は『鍼灸大成』でしたが、
            はじめは中々読んでも意味がわからない部分が多く、
            仕方がないのでその後すぐにはじめたのが『資生経』を旧漢字(日本の漢字)に
            直してみようとはじめたものでした。

             その後、せっかく全文が打ち込めたので、検索をかけて経穴の索引をつくろうと思いながらなかなかすすまず、
            途中で止まっていたのですが、7年ほど前にたまたま書店で新しく出た『人民衛生出版』の『資生経』を手にしたところ、
            穴名索引が巻末に載っているではないですか!(☆o☆)
             (この時点では三分の二ほど検索は終わっていたのですが、他のことに夢中になり進んでいませんでした)

             喜び勇んで衝動買いして(他にも『資生経』はあるので穴名索引のためだけに)帰ってきましたが、
            どうやら全ての経穴が載っていません!
             
             はじめのうちは何か意味があるのか(太字で書かれた経穴のみの索引なのか?)と思ってしまいましたが、
            冷静に考えると全てのツボがなければ索引とは呼べません(/_;)
             またもちろん中国なので「あいうえお」ではなく、画数ごとの簡体字の漢字の検索なので、
            日本人の私には直感的にさっとはいきません(/_;)。

             「中国ではよくあること...」と言ってしまえばそれまでですが、仕方なくやはり自分で検索をし直し
            つくりました。

             各経穴ごとのスペースで区切ってある上が『人民衛生出版』の巻末にある分です。
             スペースの下が私が追加した部分になります。

             『資生経』の中で、ある経穴がどの病症で使われているのか?
            を知るためにつくりましたが、
            これを元にいろいろ使えるのでご自由にお使い下さい。

            http://acupoint.feel-hariq.com/koten/07siseikyo_ketsumeisakuin/00ketsumei_sakuin.html

             3回ほどは校正したつもりですが、独りの作業なので抜けがあるかもしれません。
            もしあったときは何卒、是非お教え頂ければ有り難いです<(_ _)>


            おまけ!
            大瀧詠一 愛餓を(あいうえを)
            愛餓を 前♪♪静止画
            https://www.youtube.com/watch?v=LaH2S2dD70M
            | まんひゅ〜 | 15:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
            類経及附翼・図翼の図の一部を追加しました。
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              『類経及附翼・図翼』の図

              医古籍の中の類経及附翼・図翼の図の一部を追加しました。

              http://acupoint.feel-hariq.com/keimiyaku/ruikyozu/ruikeizuindex.html

              経穴図や流注図からもリンクで見れるようにしてゆきます。
              | まんひゅ〜 | 18:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
              ◆『サルの入浴は自然か人工的か?』 好転反との関係。
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                『サルの入浴は自然か人工的か?』 好転反との関係。



                  10年近く前、ある若い女性の患者さんに、

                「なぜ先生は、自然療法と言いながら入浴という自然ではないものを
                すすめられるのですか?」

                「昔の人はあまりお風呂には入らないのが自然だったのでは?」

                ということを指摘されたことがあります。

                  彼女は芸術家でもあり、独特の感性で面白い話をよくされ鍛えられました。

                --------------------------------------------------------------------

                  蜂の巣やアリ塚と、ヒトの造ったビルとの違い。

                そこには『自然か人工的か?』といったボーダーはあいまいです。
                病を癒すこと、治すこと、寿命とは?

                そのようなことを考えるのは、
                自然のふるまいの受け入れ難い心境(自然に逆らおうとすること)
                から始まることなのかもしれません。


                  --------------------------------------------------------------------

                『お風呂に入ること』は自然の中にいる動物では通常みられません。
                猿などではテレビなどで目にしますが、(水場で羽を洗うような鳥)
                通常どんな動物も毎日入浴に勤しむわけではないのがふつうです。

                しかし、ある頃から私達は毎日のように入浴するようになってしまいました。
                江戸時代くらいまでは、入浴という習慣はあったそうですが、
                毎日きちんと入るわけではなく、多分自然の温泉場の近くに住む人以外は、
                ほとんどは、週に一回かもしくは、月に一度、
                場合によっては年に一度や心を清める行事などがあった時など以外に入ることは
                あまりなかったかもしれません。

                --------------------------------------------------------------------

                『自然に近い生活』。と考えると入浴は不用なものとも考えられます。

                (私の実家の隣のクリーニング屋さんは、薪で風呂を焚いていますが、
                このことで自然に近いのか?遠いのか?と考えると
                春日三球・照代の地下鉄の話のようになっていつも私は混乱してしまいます^^)



                入浴にはまず第一に血流量が上がるということがあげられます。

                入浴によって血行が良くなり、様々な臓器が働き出しからだにいいということです。

                この血流量が上がるというのは、最も大事な心臓が動く(心拍数が上がる)ということです。

                ですから『心臓に負担のある方は注意して入浴を』と言われます。

                心臓にはとても負荷が掛かるので心臓は筋肉の塊なので運動をしなくても、
                少しずつですが入浴で鍛えられ強くもなります。

                持続的な軽い運動を長〜い時間できるということが持久力という体力につながります。

                上手に行えば、

                『運動しなくても、心臓を強くする方法』

                とも考えられます。

                これは、やり方や方法の問題ですが、
                長い目でみれば一時的な酸素カプセルに入るよりいいことです。


                運動・歩くなどもそうですが、心拍数が上がるということは、
                日常的にあまりそのような状況にないような、例えば事務仕事などでほとんど
                からだを使わず歩いたりするのも少ない方の場合は、
                一日の中で心拍数がほとんど上がりません。


                そのような方がいきなり運動などで心拍数を上げると、
                意識できなくても血流が早くなります。
                様々な眠っているような状態の臓器がびっくりして動き始めます。

                全く運動をしてない状態からの運動をし始めたときのダルさ。
                身体が慣れるのは、数日から数週間、数ヶ月かかったりします。

                また寝たきりの状態の方の入浴はかなりの体力消耗に繋がるほど
                からだにとっては大変なことなのです。
                (重力に逆らって心臓のポンプが働いているのは凄いことです)


                -------------------------------------------------------------


                治療などで起こる『瞑眩』(めんげん)といわれる『好転反』は、
                ほとんどの場合これと似ています。

                今まで眠っている免疫力や自然治癒力を発動させることになります。

                瞑眩反応(めんげん)は、運動をよくしている人、よく歩く人、やシャワーだけでなく入浴を
                日常よくおこなってしっかり心拍数を上げている人には起こりにくいということを感じます。

                また、運動などをしていても、使わない(不得手)な身体の部分。
                その方が使っていなかったり、動かしていない部分というのがあります。

                そういったところの血流を改善した時に、とくに長い期間(数年単位の長い期間)
                滞った部位の血流や神経が通り、動き出したときに起こります。


                 --------------------------------------------------------------------


                はじめの『サルの入浴は自然か人工的か?』
                ということに話は戻りますが、
                難しい話では、私達はかなりの昔、私自身を認識したときから自然との解離は
                始まったともいう人もいます。

                入浴やヒトが造ったり行うこと。

                それらは、積極的な生きる知恵として様々な人々が経験を通して試した結果が
                今に残っているものだと思います。

                本来人工物といわれるものも、人間という自然の中に生きる人々によるものと考え、
                自然という大きな尺度でみた時には、アリ塚と本来的には何ら変わらないのかもしれません。

                私たちは、入浴ということを経験的に学び、からだによいということで今日も続けている
                ことがほとんどです。
                (今ある歴史の時点で、ということでいえば途中の結果なのかもしれませんが)


                 --------------------------------------------------------------------

                運動をしないで心拍が上がる(血流が上がる)という少し自然には反した手段という
                のは否めませんが、運動ができない、苦手、時間が無い、という方でも誰でもできる
                血流を上げて細胞の老廃物を洗い流し、一日の疲れがかなり手軽にとれる健康法だと思います。


                  なかなか時間がない世の中、シャワーだけで済ませたくなりますが、
                週に一度か二度は、ゆっくりのんびりと『お風呂』に浸かって温まるだけで、
                『溜まっている風邪が抜け』かなりの健康状態は維持できます(^o^)。



                日本が世界の中でも長寿国の一つであるといわれていますが、
                確かに戦後の栄養状態の改善等もあるのですが、その根底を支えているのは、

                『日本人が大好きな入浴というもの』

                であると感じています。


                入浴の発明はサルなどでもできるようです・・・


                 --------------------------------------------------------------------
                | まんひゅ〜 | 21:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                「五行」というものは宗教?
                0

                  「五行」というものは宗教?

                  からだを読むことは、単にありのままをみること。
                  五感を動員してからだをよく診察して、そこから浮上してくるもの。


                  「五行」というのは、自然界(宇宙)のあらゆる現象の法則があらわれていて、
                  またそのお互い同士の関係や運動の法則などが描かれているといわれるものです。
                  「五行図」というものが凡(おおよそ・すべて)のことをあらわしている図として
                  よく登場します。



                  このことを信じるか?信じないか?ということになると、
                  一種の宗教のように感じてしまい、
                  「五行」というものの本来の姿(本質)が掴めなくなってしまうと感じます。
                  (単なる類型的な占いや血液型性格判断のと変わらないものでしかなくなる)
                  理屈をこねくりまわして、いかようにも解釈できてしまうものでもあります(´O`)

                  机上の空論よりも、からだを診てわかること。

                  このようなことは信じていないが、とりあえず昔の人々が行った鍼灸の方法とは
                  どのようなものか?と追試する立場でやってみることが重要だと思います。

                  でも試そうが試そうがはじめのうちは全くよくわかりません。
                  しかし次第に昔の人のやっていたことと同様なことができるようになってくる。
                  そして、もう少し真剣に追求してみようと思う。
                  そうこうしているうちにこれはよくできたものだ!と。

                  それは「五行」というものに対するただ単に盲目的な信仰的なものではありません。
                  使い方が違えば自然のからだというものは答えを返してくれないのです。

                  鍼灸という治療法以外にも、純粋に様々な生活の知恵にも取り入れて、
                  考えてみる、実践してみる。ということもたまにしてみる。
                  そこには迷信的と感じることや、
                  ずばりシンプルにありのままをみていると感じるときもある。

                  「五行」というものは、実に様々な見方ができます。
                  様々な見方ができるために、
                  独りよがりな見方での実践法をしてみてもよくならない。

                  そうこうしているうちに人や自然というものに対して、
                  私達が自然と感動する時が来るというのが
                  「自然の流れ」というものなのかもしれません。

                  相生のみかた。相剋のみかた。
                  鍼灸でいえば、そこに経脈の流れが加わる。
                  経脈の流れと「五行」の関係がどのようなっているのかがわかると、
                  一人、一人、異なるからだというものも読める。

                  自然の法則なので、単なる私達の色眼鏡でみているものではなく、
                  深く清らかに五感を研ぎ澄まし、
                  そこから得られる何かを見つけ出さないといけないといわれます。

                  本来の自然の法則に沿った「五行」の見方を実践したときにしか
                  うまくゆきません。







                  ・診察の奥義が書かれた『霊枢』外揣篇(45)から。

                  「揣」:はかる、診察して推し量るという意味です。

                  ◆外揣 第四十五より


                  【書き下し文】
                  日と月と、水と鏡と、鼓と響となり。
                  それ日月の明は、その影を失わず。
                  水鏡の察は、その形を失わず。
                  鼓響の応は、その声に後れず。
                  動揺すれば則ち応和し、尽くその情を得る。



                  【現代訳】
                  太陽と月、水と鏡と、太鼓とバチの響きなどを喩(たと)えてみる。
                  日月の光は、影をつくる(影を失わない 陰陽を生じる)。
                  水と鏡は、ものの形を映し出す(形はありのまま)
                  太鼓の響きは、打つ動作に応じて同時に音が出る(音は遅れては出ない)

                  それらの残像、影や像(みたもの)や響(音)は、常に揺れ動き、
                  それに応じて反応し、結果を生じる。

                  そして、それらを五官(五感)に感じれば、
                  外界の刺激に応じて心の働きの清く純粋なものを掌握できるだろう。




                  【原文】
                  日與月焉 水與鏡焉 鼓與響焉 
                  夫日月之明 不失其影 
                  水鏡之察 不失其形 
                  鼓響之應 不後其聲 
                  動搖則應和 盡得其情
                  | まんひゅ〜 | 22:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                  猿さるに出会って想う事。
                  0
                    猿さるに出会って想う事。


                      もしも私が、猿さるで、猿さる同士での戦いなら、負けないような気もするのですが、
                    私はどうしても人間なので、いつも猿さるには負けてしまいます。

                    突然の接近戦の場合。。

                    驚きと同時にお互いに窘迫した場面での、【一発勝負の間】なのですが、
                    なぜか生前の祖母のように『コラッ!』っと一声で退散させたことはないので、 
                    私が猿さるに出会うたびに祖母の『コラッ!』という場面をよく思い出します。

                    マムシに出会っても『コラッ!』といいながら足と炭バサミで捕まえてしまいます。
                    マムシ以外の大概のヘビは足で蹴飛ばすだけでおしまいでした。

                    家の軒下に作られた蜂の巣などには大喜びで、私が家に帰る日の直前まで、
                    日ごと大きくなるのを見計らって、
                    煙であぶって巣ごと手で採ってくれ、蜂の子を食べさせてくれたりもしました。

                    祖母が奥の山の中の家で、畑をしていた三十年以上前になるのでしょうか?
                    その頃私が小学生高学年くらいだったと記憶しているのですが。。

                    「最近はサルが出て、しょんない!(畑を荒らして)」

                    といつも洩らしていました。



                    ある時、祖母が一生懸命、畑を耕していたそうです。

                    ふと振り返ると 猿が大きな西瓜(すいか)をくるくる回して蔓からねじ切ろうとして

                    いた瞬間でした。

                    怒りが込み上げ『コラッ!』というと

                    慌てて長いツタを手でねじ切り、

                    肩越しにスイカをかついで逃げたそうです!

                    人が居る畑に、堂々と入ってくるようにまでなった猿の話は、
                    数年前からの続きの最新号でした。


                    そのときの祖父がいうのは、
                    『コラッ!』というと、今までは置いて逃げて行ったが、
                    最近は『コラッ!』と怒鳴っても、慌ててかついで逃げてくようになったと。。

                    ある親子連れのサルのケースでは、
                    『二匹で慌ててキュウリを懐に、抱え込めるだけ抱え込んぞ!』と、

                    『最近の サルは全く怖がらん』

                    となかば関心し、

                    『今年はおばあちゃん、スイカをつくったよ!』

                    と、暑い夏の日に到着したばかりの私に、

                    サルとの格闘の末にやっと実ったスイカを切り出しながらの、

                    『 猿、スイカ強盗事件』の話しも、

                    笑い話です。



                    そして私の場合。

                    私も何度目かの サルとの相遇!
                    『コラッ!』と言ってみたこともあるのですが、

                    その時の事の顛末を一つ<(_ _)>。


                    まずはじめに、見つめ合っても猿さるのほうが、

                    『何だコイツ』と我関せずです。

                    私としては、背中をこちらに堂々と向け歩きかけた瞬間に、

                    言いそびれて『コラッ!』です。

                    背中をこちらに向けてた相手の方は、
                    恐れというよりも、むしろ怪訝な表情で再び見つめ合った後、
                    急ぐわけでもなく、
                    再びこちらに余裕の背中で語りかけながらどこかへ行ってしまいました。


                    『勝負は間』ということを 猿さるに教えられる次第です。




                    今の実家のすぐ先の交差点は、「阿寺の七滝」に登る細い県道の入り口に
                    なっていいます。
                    夜、少し遅くなると全く車の通らない道です。

                    阿寺方面に夜のドライブに向かうと。。。

                    たぬきや鹿が立ち止まり、
                    ヘッドライトに眼をキラキラさせてこちらを振り向くのがカーブごとにみられます。

                    ミッドナイト、鹿・タヌキ・狐パークです。

                    (子供をつれていくと喜んでくれます)

                    車を止めると、
                    びっくりしたようにじっと立ってこちらを不思議そうに伺っているのですが、
                    怖がる様子はなく、ぜんぜん逃げようとはしません。
                    こちらの場合はサルとは違い、
                    しーんと鎮まりかえった月夜の神秘さと、カワイさ満点パークです^^

                    不思議と夜には、サルに出会ったことはありません。

                    私(人)のように、夜な夜は、あまり行動されない方なのでしょうか?
                    | まんひゅ〜 | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
                    ◆潰瘍性大腸炎の東洋医学の病理。   お腹の瘀血、「風根」を取り除こう!
                    0
                      ◆潰瘍性大腸炎の東洋医学の病理。
                      (含む、呼吸がしずらい感じ)

                      お腹の瘀血、「風根」を取り除こう!

                      ---------------------------------------------------

                      伏梁(ぶくりょう)、積 潰瘍性大腸炎 お腹の瘀血(古血・ふるち)

                      お腹の伏梁・積について。
                      呼吸と下腹部(丹田)

                      ---------------------------------------------------

                        潰瘍性大腸炎は、
                      東洋医学でも昔から治すのには時間のかかる病気だったようです。
                      鍼、灸、按摩、薬(食養)、気功を取り入れながら、呼吸を調える。
                      鍼灸なら呼吸を楽にする配穴、腹部瘀血を取り除く治療。
                      そしてお腹(大腸)に留まった風邪「風根」を抜くことです。

                      【参照】

                      『類経』十七巻 疾病類
                      七十二、腸澼(附:痢疾治法)
                      七十三、伏梁

                      『資生経』第三
                      29 便血(余見痢腸風)
                      31 腸風
                      32 腸澼
                      33 腸痛(余見腸澼)

                      『寿世保元』明 襲廷賢
                      巻四 便血

                      など



                      ===================================================

                      『素問』奇病論篇(47)

                      黄帝:
                      なんだか、脇下が脹って胸などがパンパンになっているような感じがして、
                      気が上に逆流(上逆)し、息(呼吸)がしずらい感じが2〜3年も治らない症状が
                      ありますが、これは何という病気なのだろうか?

                      岐伯:
                      これは「息積」という病です。
                      (呼吸がうまくできず、呼吸がしずらい感じで
                      息(気)が脇下や胸に積もってしまうという名前です)
                      食欲は妨げられませんが、呼吸の仕方の問題もあるので、
                      通常の鍼やお灸のやり方ではダメです。
                      積(しゃく・せき)を治療するには※導引(気功法)によって
                      気血の流れを整えながら薬を使います。
                      薬の単独でもダメです。

                      黄帝:
                      腰・殿〜股関節まわり、腿(ふともも)、膝下の下半身がみんな腫れた感じ
                      になり、臍(へそ)の周囲(ぐるりと環状)を手で押すと痛がる患者さんがいるが、
                      これはどんな病気なのでしょうか?

                      岐伯:
                      「伏梁」ぶくりょうという病です。
                      この臍(へそ)の周りのしこりのような硬いものは
                      「風根」といいます。
                      風邪久しく体内に留まったもので、「風の根っこ」といいます。
                      この「風根」の邪気は大腸に溢れるように広く分布し、
                      ※肓膜(こうまく)に付着してしまっています。

                      肓膜の付く元は臍(へそ)の下の丹田です。
                      なので、臍(へそ)の周囲が痛みます。
                      これを按摩などで強く圧し動かして取ろうとしてはいけません。
                      動かしてしまうと、小便が出ずらい病に為ってしまいます。

                      ==============================================

                      ※導引(気功法):現在の気功や運動のこと。
                      腹式呼吸など呼吸を整え、吐故納新(濁を吐き、清を納める)し、
                      心と体をリラックスして、精と神を一つにする。
                      手や足、体を動かして、気血の巡りをよくする。

                      調息、調心、調身。

                      快食、快眠、快便、適度な運動と呼吸。

                      ----------------------------------------------------------

                      ※肓膜(こうまく):現代の解剖学でいう「大網」など。
                      臍(へそ)の周囲から繋がっているお腹の裏の広い組織。

                      【参照】
                      『霊枢』九鍼十二原篇(01)
                      膏之原.出於鳩尾.鳩尾一.
                      肓之原.出於脖胦.脖胦一
                       
                       
                      とあります。(脖胦は気海穴?)

                      膏肓;膏盲兪(『外台秘要方』)に繫がっているということでしょうか。


                      【参照】
                      『素問』腹中論篇(40)



                      ====================================================================

                      『素問』奇病論篇(47)

                      帝曰 病脇下滿氣逆 二三歳不已 是爲何病
                      岐伯曰
                      病名曰息積
                      此不妨於食 不可灸刺 積爲導引 服藥 藥不能獨治也

                      帝曰 人有身體髀股囲皆腫環齊而痛 是爲何病
                      岐伯曰
                      病名曰伏梁
                      此風根也 其氣溢於大腸 而著於肓 肓之原在齊下
                      故環齊而痛也
                      不可動之 動之爲水溺濇之病也

                      ============================================
                      | まんひゅ〜 | 21:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - |